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問いは必要性から生まれる
教えるということは、教える側にとっても学びがあるのだとつくづく感じます。
将棋を教えていて質問や相談をされることが良くあるのですが、質問の回答をするときどんなことを考えてしますか?
今回、将棋を通して、回答するタイミングの重要性について考えました。
将棋を指せて喜ぶ姿が見たい
私はプロではありませんが、将棋を教えることがよくあります。将棋が好きなので、指していると、どうしてここはこう指したんですか?とか、こう指したらどうなるんですか?なんて会話をしていくうちに、将棋仲間が増えていきました。
子連れの愛好家の方もいたりしますので、自然と子どもにも質問されます。
まわりに将棋を指す人が増えてくれるのは本当にうれしいですし、何より将棋を楽しそうに指している人を横で見ているのが好きです。
楽しそう、というと少し語弊があるかもしれません。負けて悔しがる姿や泣いている子さえ見ます。でもすべて将棋を指せる喜びを感じている姿ですね。時を忘れるくらい指しているときは集中しています。
質問はいろいろです。この質問に答えるのも楽しいです。どうしてそんな風に考えるんだろうって感じでこちらの勉強にもなります。
質問には動機がある
質問には動機がある。
当たり前のことですが、今まで深く考えることはありませんでした。私は将棋を通して考える機会を得ましたが、このことは将棋だけでなく仕事やいろいろなことにも応用が利くのかなって思いました。
将棋で、囲い方を知りたいという質問がありました。
将棋を指す上でそのように質問する人は多いです。しかし、その質問の動機はそれぞれ違います。際立って二種類、その違いを強く感じました。
実際に、囲い方を知りたいって言ってくる人は、知識として知っておきたいって人と、囲う必要性があって知りたいって人に大きくわかれます。
前者の囲い方を知識として知りたいという人は大人が多いです。その特徴として、形から入るという考えが大人に多いのかなっていうのがあります。とりあえずセオリーを知っておきたいってことだと思います。
出会った方の中には、”私は囲い方も知らないくらい弱いです”、っておっしゃる方がいます。
囲い方を知っているか知らないかを一つの基準として考えている人がいるのだなって思いました。こういう風に考える人はきっと前者に当たります。
一方後者の、囲う必要性があって聞いてくるひとは子供が多いです。この後者の動機について考えさせられました。
必要性に駆られて質問する
子供の場合、いつもここでやられちゃうんだよな~って感じで頭を捻っています。
囲いという単語を口に出して質問すると言うより、負けてしまう原因を探している感じです。なのでこちらが察して、『流れ弾に当たらないようにすればいいんじゃない?』ってつぶやくんです。
すると子供は、変則的でも囲ってきます。囲っている人の真似をするんですね。負けたくないから囲うっていうのが本音なのです。
子供であれ、大人であれ、必要性を感じて囲いについて聞いてきた人は、相当悔しい思いをしてきたんだなって感じます。
前者は、そういう悔しい思いをしたくないってあらかじめ思うからで、後者はそういうことはあまり考えていない感じに受け取れます。
成果はどちら?
どちらの方が囲った成果を得られるか?そういう目で見ると、後者の方が成果が大きいんです。これまでよりも勝率が伸びています。
ここから分かるのは、必要性に駆られて質問する人は、その答えを実戦ですぐ使用するからだと思います。
実戦で使用して最初はうまく行ったり上手くいかなかったりするのですが、自分なりの工夫や、強い人の真似をしたりして自分のものにしていきます。
成果の差は貪欲さの違いだと思います。必要に駆られて質問してくる場合、そこに貪欲さがあります。
教えるタイミング
教えるタイミングが大事だなって思います。
鉄は熱いうちに打てと言いますが、まさにその通りだと思います。
相手が欲しいと思っているときに答えを教えるというのが大事なんだと思います。
タイミングよく教えて、それがきっかけで勝ちだすと、ハマります。
悔しくてたまらない気持ちはあまり放置すると諦めに繋がってしまいます。
”もういいや、やーめた!”ってなっちゃいます。これは一番避けなくてはならないところですが、タイミングよく助け船を出すと、めちゃくちゃ将棋にのめり込むことになりますので、教える側としては見極めが肝心です。
逆に、答えを欲していないのに、こちらから教えてしまうと、まったく身につきません。
将棋にも攻め時、守り時というのがあると思いますが、教えるときにも教え時って時があるのだと勉強させられます。
俗に教え魔と呼ばれて敬遠されてしまう人はそのあたりの見極めに伸びしろがあるのではないかと自分を棚に上げて思ってしまったりします。笑
小さな失敗を重ねることの意味
将棋を通して考えたことではありますが、教えるタイミングというのは、裏を返せば学び方にも通じてきます。
やる前にいろいろ知識を得てから始めようとする人がいます。石橋を叩いて渡ろうとする気持ちがあるのは自然ですよね。
ですが石橋を叩いて渡らない人もいます。
前者の中に大人が多いと思うのは、そういう致命的な失敗をしないように考えるからだと思います。
将棋は負けても命を取られるわけではありません。ですから何回も指して負けると悔しくて成長するってこともあります。しかし、失敗したら致命傷をうけるようなことに対しては、失敗はできません。
理想的な学びは、小さな失敗をすることが大事だなって思います。
これを裏返すと、理想的な教えは、小さな失敗をさせることだと思います。
その失敗から学ぶことがたくさんあるのだと思います。
これは大人であれ子供であれ同じだと思います。
もちろん失敗せずに済むこともあるでしょう。でも失敗しなかったことが運がよかったと知ればあとで身に染みることもあると思います。
小さな失敗は、致命的な大きな失敗をさせないためにさせるものだと考えると、教えるということの意味が別の角度から浮かび上がってくる気がします。
まとめ
問いは必要性から生まれるということについて書いてきました。実際に必要だと思わなければ聞くこともなければ調べることもありません。
問いを持つことが重要だと教わった理由の意味の新たな一面を人に教えていて気付きました。
問いを持たせるように導いていくことが大事なのだと。
そして失敗して悔しい思いをすることで、問う思いは強くなります。
その問いが強くなって、程よいタイミングで教えると成果が高まります。
やがては私が教えることのできない問いを持つこともあるのだと思います。きっとそれは成長であり、誰も教えてくれない中でその問いの答えを探し続けるのが人生なのかもしれません。
良き問いをもって生きていきたい、そう思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました。(*^_^*)